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90才以上のヒトの要介護期間の始まり時の家族の反応

最近は,患者さんの年齢もどんどん高齢化が進んでいる.
単純にいえば,90才台のヒトの新規入院が半数以上を占めだした.
多くの現実を見ることになる.

簡単に言うと,医療従事者も一般家族も未体験ゾーンに入った印象.

僻地になればなるほど,超高齢社会は現実となっている.
そもそも65才が高齢者としたのは,1956年に国連が定義した.
その当時の日本人の平均寿命は男性63.6才.女性66才だった.
そのとき年金制度も導入され,
男は65才から10年,女性は70才から5年で人生を全う出来ると計算された.
まあ,それはそれ.1956年ならそれでよい.
その当時100才以上が,全国に100名ぐらいだった.
今は8万人と言われる.

そういうバックグランドの知識は知識として持っておくのはよい.
1956年の年齢比率を今の日本にあてはめると,
「85才以上が高齢者」になる.

現場にある現実はなにか.
年齢で考えると,85才ぐらいまでは農業を続けているヒトは結構いる.
多くの地域の人達は,75才までは遊びも仕事もするのは当然.
後は徐々に減らして85才までは仕事をする.
その後は車の免許証も返納するつもり.

ということで,90才でも一人暮らしのひとをはじめ,90才以上のヒトは大勢いる.

自分の経験則:「ヒトは死ぬ前にこける」
これは野生の動物でも同じ.
なにも無いところで,筋力が落ちてきたらヒトも動物なのでこける.

最近の経験.
90才を超えたヒトはこける.それで一番多いのは「大腿骨頸部骨折」
さらには肋骨骨折,腰椎椎体圧迫骨折.

今まで面倒をみていなかった家族の反応:
「自宅では面倒がみれないので,病院で元気になるまで預かってほしい」
「こける前は歩いていたので,そうなるまで預かってほしい」

なんとなく,普通に聞こえるが全く無理なお話をしている.

「こけるようになった」ということは,結論から言えば,
「終わりのはじまり」である.
要は,「こけだした高齢のヒト」は
動物として,筋力も低下して生きる限界まで来たということを意味している.
その人を病院にいれて,「医療」としてなにかをすれば,
スタスタ歩けて自分のことが出来るようになるという期待は,
「若返る」ことを期待しているということになる.
「寿命」が来ているということを認めたくない家族の気持ちはよくわかる.

しかし,昼夜無く怒る,夜間に不穏になるなどの認知症のBPSDの症状が多くの人に付いてくる.
それも病院に入院させたら治るのではないかと思っている.
要は家族は「症状を本人の代わりに訴えて,病院に入院させるのが.家族の役割」と信じている.
90才以上の患者さんは多くの病気の既往歴がある.
癌の手術,心臓のペースメーカー,骨折の手術など多くの病気を切り抜けて90才以上まで存命している.よく戦いました.それは「現代医療の勝利」と言える.

問題は,ここから.

日本人は90才以上まで存命出来るようになった.
幾多の病気を切り抜けてきた.
そこで,今度も切り抜けるのではないかと思う.
切り抜けられる病気も中にはある.
しかし,「自宅で歩いていてこけだした」のは,病気ではなく動物としての限界が来ていることなので,「医療行為」でも「こけなくなるようにする」のは,
要は「歩ける体力,筋力を戻す」のは,今の医療行為では到達できない点である.
今の医療の到達点は「死なさない様にする」医療であり,
まだ,「人生の時間を巻き戻す医療」には到達していない.
脳卒中のリハビリは,残った能力を最大限まで活用,工夫をする医療であって,
新しい血管,神経を作る「再生医療」とは異なる.

90才台の患者さんの息子さんなどが,「歩けていたから,病院に元気になるまで入院させてほしい」とのことをお願いしてくるが,60才台,70才台の息子さんの要求は「自分を1ヶ月入院させてもらって,その間に白髪も黒に戻して,筋肉もつけて,視力も元にもどして,虫歯もなくして,お腹もひっこめてもらって,30才とは言わないが,せめて40才前半までは戻してくれたら退院します」という要求をしているのと同じ.
おそらく,病気を治せば,切り抜けてきたというのと「加齢現象を元に戻す」のは別モノであることは,「わかりたくない不都合な真実」であろう.

要は,保険診療の限界を超えた希望を家族は持っている.
それをカバーするために日本は介護保険を作った.
それを最初に作ったのはドイツである.ドイツもフランスも人口がピークアウトしている.ドイツの制度をまねて日本は作った.

その前に,もう一つ大事な情報がある.
「健康寿命」と「平均寿命」の違い.
古いデータでは2013年の女性のデータでは、平均寿命86.61歳に対して健康寿命が74.21歳で、差は12.40年となり、2001年の12.28年と比べて長い.

 


さらに厚労省のデータからは健康寿命と平均寿命の差は,
最新で男性8.84年,女性12.35年(2016年)
その「平均寿命から健康寿命をひいた期間」の名称が決まっていない.
そもそも,健康寿命は,ヒトに面倒をみてもらわなくても良い年齢までの寿命.
それからの平均寿命までの期間の名称がない.
調べると「介護期間」が一番わかりやすい.

現在のデータでは,2020年の日本人の平均寿命は
男性が81・64歳,女性が87・74歳である.
年間0.3才ぐらいづつ伸び続けている.

この平均寿命は,赤ちゃんの時に無くなったヒトや若年で癌でなくなったヒトも含まれるので,非常に意味が深い.
ということで,現在80才なら,この平均寿命を超えて生きるのが当然.
そして,計算すると,現在70歳の人の平均余命(残り何年生きられるかという数字)は男性15.72年、女性19.98年。この平均余命と健康寿命を基準に考えると、平均介護期間は男性14.53年、女性15.77年となる.要は15年は誰かに面倒を見てもらわないといけないということ.

と言うことで,高齢社会先進地域である真庭市では90才以上のヒトが大勢生活をしている.
無邪気なヒトなら心臓にペースメーカーを入れたらそれからまた100年ぐらい自分の心臓が動くと思うヒトがいるのが現実.

もとに戻って「90才以上のヒトが自宅で転倒しだして,自宅では面倒みられなくなった」ということは,90才まで健康寿命があったということである.それは素晴らしいが,誰かに面倒をみてもらわないといけない時は必ずくる.

医療の限界を超えた時点で,あるいは言葉通り,「介護が必要な時点」で介護保険の適応となる.ドイツには先見の明があったというか日本も介護保険制度を作って,医療保険では破綻を来すので,「国民皆保険」ならぬ,「国民皆介護保険」を作り挙げた.
しかし90才を超えて生きているヒトをみていると「何才までこの方は生きていくのか」謎になるような人達も多い.毎日みていると,「まだまだ介護保険を使って」デイサービス,ショートステイなどは使っても週に1日も利用すればずっと1,2年は長生きするのではと思ってしまう家族も多い.90才以上の55%は認知症とデータがある.急に会話の内容が合わなくなったりは,よくみてきた.そのときでも,家族は認知症になったなどとは認めたくない.
介護保険を使って,食事を食べさせてもらう.排尿,排便の面倒をみてもらう,意味不明の会話に職員がつきあうなどは次の段階.
さらには寝たきりになる.

現実を直視するのはつらいが,人間個人が動物である以上,個体の衰弱は免れない.

元に戻る.
「自宅でこけるまでは歩いていた.また歩けるようになるまで病院に入院させてほしい」ということは,「加齢,筋萎縮,寿命が近づいているのを病院に入院している間に,時間を巻き戻して,若返らせてほしい.」と希望しているということである.

日本の病院で,加齢を直すことのできる病院は,今のところ知らない.
「なにか治せる病気がもとにあって,こけた」のなら「なおせる病気を治せば良い」が筋肉が萎縮して動けなくなって,要は,衰弱していっている状態を元に戻すことを希望しているということが,区別が全く付いていない.
要は,「めんどうをみないといけない」立場に急になったら,素人さんは,ここにあげるような反応をまず見せるのが最も多い.

いままでは「病気の治療」をたくさんしてきて,切り抜けたのだから,今度も切り抜けると言う思いは皆にあるが,「病気と闘う時期はすぎて,次は老化,加齢とともに老いる」という時期をどのように本人にすごしてもらうかというところに来ているのが,「わかりたくない」「認めたくない」の一念から,面倒を見ていなかった親族からは,「病院に入院させてもらって,元気になってからかえってほしい.」との希望がでて,面倒を見ていた家族からは「ポータブルトイレでも排尿を失敗して,その後片付けが大変,それでも本人は怒る,デイサービスに行くのも毎回怒りまくるのでそれを直してほしい」などの要求は,別のものであることの理解がどこまでわかるかである.

要は,医療でとことん頑張って,90才を超えた後は介護保険の活用をする.
真庭のヒトの本当の要求は「リーズナブルな料金をはらえば,二度と自分たちが自宅で本人の面倒をみなくてすむのが理想」ということになる.

日本は,医療と介護保険をわけていたが,もう余裕はなくなった.
医療で長生きできるようになり,最後の筋萎縮,フレイルもふせぐようになり,介護も必要,医療も必要という状態になっている.「介護医療院」なる中間施設もできた.

なにか病気があれば,90才を超えても,なんとかして落としどころをみつけて病名をつけて治療できるが,そうでないと病院でできることはあまりない.

今の印象,89才ぐらいまでは,皆,本人,親族を含めて,「まだまだ若い」と思っている.
90才から95才までは本人の状態が大きくわかれる.さらには,家族の対応も分かれる.面倒を毎日みている親族と電話だけの遠くからの親族などの反応は特に分かれる.とことん治療してください.元気にしてくださいと言ってくる親戚もいる.
胃瘻造設なども面倒をみないといけない家族,まわりから意見だけを言ったら良い家族などで回答は真逆にわかれるなどは,この年齢層.

95才以上100才までは,さらに元気な人と気切,胃瘻造設などの寝たきりのヒトにわかれる.今までの家族,親族のその人の病気,生活への関わり方で対応が変わるが,急変時はDNARはほぼ一致.

100才超えて,血ガスのデータが悪化,腎機能低下とか聞いても家族も親族も,もう無理しなくて良いですとほぼ全員の家族が発言する.
加齢による見た目の変化なども,90才のヒトと100才のヒトでは全く異なる.よく長期存命できましたねいうところ.実際は,本人が病気がちだった場合は,家族の経済的な負担も積み上がって口には出せないが,「いったいいつまで」と言う想いのある家族も存在する.

日本の国策は,「子供を増やす」から,「元気な老人を作る」に変わった.
その政策は,ある程度うまくいった.
しかし,さらに長生きした後のことまでは,さすがに戦略はなかったというのが今の実情.これから10年は,90才台のヒトの対応に日々追われることになる.

なんとか「病気が見つかれば病院に入れられる」と希望する家族と,
「加齢をなおせる医療に,まだ現代医療は到達できていない」と実情を説明する医療従事者の説明のせめぎ合いが続く.

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