1)2026年2月から働いている病院を「O現病院」、2)直前の8か月研修に行った病院を「O1前病院」。髄液漏の技術研修。
3)その前の8年8ヶ月通った半単身赴任の県北、真庭市の病院を「M2前病院」、地域医療中心。高齢者多く「認知症専門医」、「認知症サポート医」取得。4)その前の岡山市の病院、都合12年間働いた病院を「O3/5前病院」(前期3年7か月、後期8年5ヶ月にわかれる)専門病院で手術をたくさんした。5)岡山市の病院から赴任した高知県県市病院合併の大きな救命救急センター「K4前センター」と記載。ドクターヘリに乗ってその後、救急専門医取得。6) その前の大阪の病院は1998年から2001年なので「O6前病院1998」とする。7)それ以上の前は、専門医を取りたての高知県の「K7前病院1995」にする。
9月1日(火)とにかく「O1前病院」に移動して、手術の手伝いをしてきた。
やや遅く自宅を出発したので、駅裏の12時間おいて1100円の駐車場がなんとかギリギリ駐車できた。さらに後15分でJRの電車が出発するので、杖つきながら急いで歩いた。なんとか2,3分前に乗れた。もう夏休みも終わり、生徒さんがいっぱいで座れない。空いた席に座ろうとしたら、他の人が座った。次の座れる順番をまつために椅子のそばに立っていたら、そのほかの人が席を譲ってくれた。右膝、右殿部が痛かったのでありがたかった。駅に到着、ホームにでたらICOCAカードの残額が700円ぐらいになっていたので、すぐに課金した。なんか便意があり駅のとなりのトイレへ、さらに駅構内のセブンで昼食を購入。これが電車到着して10分以内で終了。バス亭にいくと、JR到着から10分待ち予定のバスがきたので乗って病院へ。なんとかかんとか手術に間にあった。手術は予定より早く済んで、帰りは新幹線で。というのは病院から一番近いJRの駅はエレベーターもエスカレーターもなく階段が大変なので、帰りは新幹線と決めていた。コダマは昼は1時間に1本なので、間に合うようにいけて良かった。帰院後、「今の病院」で、ヨード剤アレルギーの人のために、生食を髄注して髄液の漏出部位を確認のMRIを撮った。なんとか漏出部位は判明。さらに16時半に別の患者の家族に説明。その後医局に戻ると、前で薬会社の人が待っていた。もう用事がいっぱいなので断っていたが、さらっと説明を聞いていたら、自分がピッチを別のところに忘れていたらしく、外来が探していたような。なんと自分が17時から19時の当番だったと判明。外来をした。とにかく、朝の6時半ぐらいからノンストップで働き続けた。なんとか20時には自宅に帰り着いた。長い一日だった。
9月2日(水)この日は、午前は自分の専門外来。なんと途中から紹介状を持った初診患者が来た。自分が、専門にしていることが県内の脳外科病院に知れ渡ってきていることが判明。その後は、15時半から、痛みどめ、アレルギー対策をして、今の病院に来るまで修行?研修?した「O1前病院」で修行したC1/2からのブラッドパッチを施行した。ブラパチとしては4例目。手技後のCTでは位置は間違い無い。量がもう少し多く入れば100点だったか。まあ「O1前病院」に8ヶ月単身赴任して技術を学んだ甲斐があったというお話。長い道のりだった。自分が初めて髄液漏を診療したのが2002年だったと思われる。その当時はブラッドパッチは麻酔科の先生にしてもらっていたので、自分は治療が出来なかった。それが、今は腰椎に硬膜外持続注入カテーテル留置するのも、頚椎C1/C2からの硬膜外自家血注入も出来るようになったので、診断も治療も全部出来るようになったと言うこと。しかも診断方法も治療方法も長足の進歩で、第4世代という印象。長年の目標が達成できた瞬間ではあった。次は応用でさらにそのデバイスが来るのを待っている。2002年からまわりまわって漸く、円周の全部をまわったという感じ。長い医師生活を振り返っても、多くのことをしてきたが、これで、後は論文を書いて引退できるという印象。セカンドライフのしたいことはできると判明した瞬間であった。このために努力をしたので、多くの他の分野は徐々に外して行く予定。
9月3日(木)この日も13時から「外科」「リハ前外来」をした。月木は自分はその外来をしているが、全く面白くもなんともない。時間つぶしのような外来である。なにか当直の先生が遅れるらしく自分が居残りになった。
9月4日(金)朝7時に迎えが来て、県北の「M2前病院」病院へ。患者は少し減った感じ。それでも昼食は16時過ぎに少し時間があって食べれた。その後18時前には外来終了。その後、書類、紹介状と書きまくって、夕食もたべて、さらに身障の書類など延々とやって、翌日の2:50には、もう無理となって、シャワーあびて寝た。
9月5日(土)なんとか7時50分にはヒゲも剃って、朝食へ。その後は、8:40から外来開始。なんとか13時過ぎに終了。新患も来て、段取りが大変。まあ、なんとか済んだ。ヘトヘト、帰りの車の中では爆睡した。つかれた。
その後、17時にはマツダに車の定期点検に持っていった。待ち時間に、自分の膝の手術、強制退院になったこと。今の職場にはコンプラ、ハラスメントという文化がないことなど、こちらの興味深い話をしてあげた。「何歳になっても新しい経験はあるんですね. 昭和の頃は、コンプラ、ハラスメントなどの言葉はなかったですね。有休も半日単位、夏休みが1日単位というのも制度としては、古いですね」との感想。「ある意味、昭和のころのままですね」と納得してくれていた。器械も1980年のものが動いているので、そこで時間が止まっている印象。昔は有休なんか取るという発想もなかった。その分、ちょっと外へ出て行って個人の用事をすましたりは、普通にしていた記憶がある。その分、帰って来て余分に仕事は皆していた。「その当時のトレンドを感じます。雰囲気もタイムスリップした感じです。」と自分もまとめておいた。無事、点検も終わって18時過ぎには病院へいって、水曜日にブラパチをしたヒト含め回診。その後20時20分には、回転寿司に食べに行ったが、ものすごいヒト。9組ぐらい待ちで30分待ってなんとか食べたが、ものすごいヒトだった。ラストオーダーが21:30なのに、ドンドン入ってくる。自分は県北の田舎町に8年8ヶ月もいたので、こんなにヒトが多いのはびっくりした。
9月8日(火)この日は、手術を午前中は「O1前病院」に手伝いに、午後は帰ってきて、少し手術をして、相談に行った。いろいろ、自分の全く関係の無いところでの確執など、聞いていて興味深かった。ポジショントークというものを聞いた。今後は、どうなるか、悩みがもう一段、深くなった。
9月10日(木)翌日の夏期休暇のために朝から努力し続けた。11,12日退院のヒトのサマリーなど朝8時前から全力で働いていた。それが朝9時前に救急車一台。まあ帰宅できた。県北の救急搬送依頼。これは、やや特殊なので形成外科に相談して断った。さらに午後から外来。なんと外来中も救急担当というシステムなので、一台また来た。その人も意外と軽く独歩帰宅できた。それ以外のあるいて来た人が実は慢性硬膜下血腫という状況。ベッドはないらしいがなんとか無理して入院できた。夕方、午前中に形成外科が断った患者さんについて、大学に救急要請の電話があり、こちらの病院に依頼が回ってきた。翌日にはベッドがあくとのことで、話はついた。ということで翌日に続く。
9月11日(金)この日は、夏期休暇を申請していた。9月20日までに3日間、一日単位で取るようにとのこと。それが10時に県北から予定の救急搬送がくる。14時に慢性硬膜下血腫のオペが入った。夏期休暇は当日、朝キャンセルした。外来や用事が無い曜日は金曜日しかないので、もう一日休める日はない。夏休みも終わり。
9月19日(土)3ヶ月ぶりに散髪。ほんまにボサボサの素浪人のようになっていた。
9月21日(月)シルバーウィークは、実家にかえった。長距離の運転も右膝もなんとかなった。
9月24日(木)このひは術後3ヶ月で右膝のMRI。内側の半月板は消えていた。
9月26日(土)この日はキャンプに行った。コロナで瓦解したが、ほんの数名でキャンプで、自分は、フライアングリングはせず、食事とアルコールだけを楽しんだ。しかし、そこは、8月末で岡山はアマゴが禁漁になる。そこへ、ニジマスを放流した。ニジマスは「通年」釣れる理屈がある。自然の渓流の釣り場に、ニジマスを報酬したら、10月末まで、ニジマスをキャッチアンドリリースでフライ、ルアーで釣れるとのこと。来年は、初雪まで釣り期間を延ばすとの噂もある。一日中、遊べて2000円はお安い。宴会なんかよりも延々と遊べて、興奮が続く。
