世の中には,有名な箴言というか,ことわざというかキャッチフレーズというか
いろいろな言葉がある.
有名な言葉に,
「百聞は一見に如かず」というのがある.
実際は,その後にも,いくつか続きがある.
「百見は一行に如かず」で百回見学しても,実際自分で一回でも
行ってみると,予想と全く違うことなどを発見するという意味.
簡単な例では「自転車に乗る」などであろう.見ても乗れるわけではない。
水泳は、木登り、鉄棒、楽器演奏なども同類。
それは,「筋肉の動き,手の感覚をもとにどう動かすか」などの,実際の
身体に対する知覚,感覚情報をもとにして筋肉を動かすことであろう.
ボートをこぐなども「力の入れ加減」などが外から見ていては,
おそらく全くわからないであろう.
しかし,以外と短時間で基本的は動きは身につく.
Z市にきて,毎日身にしみている.
「百行は一果に如かず」
これは,また別の意味合いをもつ.要は
やってもやっても結果がでないと,
それは「やってない」ことと同じ評価になるということ.
これは外からの評価になる.
イメージとしては,飛行機の評価が一番わかりやすい.
飛行機は滑走路をいくら早く走っても,飛び上がらない限り,
飛行機としての評価はゼロである.「高さ」が評価の場合,
陸をいくら早く何回も走っても「飛びあがらない」限り,飛行機としての
評価はゼロのまま.止まっている状態と同じと言う感じ.
結果を出すまでの努力は大事だが,「結果を残すことがまずは大事」
となる.
スポーツや演技で結果をだすには,訓練が必要ということである.
あるいは命がけの果たし合いなどとなれば、別次元の話になる。
宮本武蔵の「五輪書」にも、「鍛錬」の定義で、「鍛」は同じことを千回繰り返すこと。「練」は同じことを1万回繰り返すことと記載されていた。他の内容は一切わすれたが、
自分は少ない機会を活かさないといけない。「果たし合い」も生きるか死ぬかなので、
複雑な動きを延延と訓練しないといけない。剣の道の「奥義」などは一子相伝で
免許皆伝のための最後の段階であろう。
自分は
「一回経験したら、次にそなえて百回経験したぐらいの勉強、練習をしておく」と
アレンジしている。
歴史に名を残したければ、複雑な動きを簡単に優雅にしているみたいに、
まわりのヒトからは見えるように練習を繰り返さないと行けないのは、当たり前。
フィギアスケートの4回転ジャンプなどは、その最たるモノであろう。
歴史に残るレベルで結果を残すのなら、それは「努力し続ける天才たちの戦い」になるので、「これぐらいで良いか」などの妥協は一切ないであろう。
毎日の生活でそこまでの「血反吐を吐くほど」の努力はない様な。
しかし,ネットにはいろいろなものが挙がっていて驚いた。
「百聞は一触にしかず」
直接,触れてみないとわからない.身体感覚などは触ってみないとわからないことは
いくらでもある.陶器の手触り,あるいは道具の握り具合,スポーツの道具、楽器などは,自分自身の使い心地などが大事である.自分にあった車でないと快適でない。要は聴覚、視覚の次は触覚 さらには振動覚など別の感覚も必要ということが言いたいのであろう。
「百聞は一試にしかず」
まあ,試(ため)してみないとわからない.これは「一行」にも通じる.防災訓練10回よりも一回,大地震にあってみればわかることはたくさんあるとは思う。そこで生き延びれば,防災訓練もより具体的な効果的なものにはなると思う。しかし大地震は怖すぎて別の印象.これは動物的な五感にくわえて、人間的な「恐怖、不安」などの感情、情緒の要素が加わると言うこと。一般的な言い方をすれば、「一回、ひどく痛い目にあえば、嫌な記憶などはしばらく、あるいは生き方自体への影響がある」ということか。
あるいは「楽しかった経験は一生の思い出、生きる糧にもなる。」ということにもなる。
「話を聞くだけでなく、いろいろ言わずに一回やってごらんよ。おもしろいよ。はまるよ。」などはこれになるような気がする。
「百聞は一考に如かず」
これは,ただ,ぼーっと見ているだけでは駄目で,行われていることの背景,まわりの状況,次に行われることは何かなど,考えながらみないと意味があまりないという意味らしい.これは上記の五感、感情にくわえて「思考」「計画」などの理論的な側面を加えたものであろう。
以上で「感覚」「感情」「情緒」「思考」など人間が経験する一通りのステップを網羅している。要は「成長、Upgrade」していく段階を多方面から諭している「ことわざ」「箴言」「アドバイス」になるか。
今の生活をしていると毎日が上記の段階を進んでいるので、毎日が充実している。