2026年 9月
1)2026年2月から働いている病院を「O現病院」、「今の病院」
2)直前の8か月研修に行った病院を「O1前病院」。髄液漏の技術研修。
3)その前の8年8ヶ月通った半単身赴任の県北、真庭市の病院を「M2前病院」、
地域医療中心。高齢者多く「認知症専門医」、「認知症サポート医」取得。
4)その前の岡山市の病院、都合12年間働いた病院を「O3/5前病院」
(前期3年7か月、後期8年5ヶ月にわかれる)専門病院で手術をたくさんした。
5)岡山市の病院から赴任した高知県県市病院合併の大きな救命救急センター
「K4前センター」と記載。ドクターヘリに乗ってその後、救急専門医取得。
6) その前の大阪の病院は1998年から2001年なので「O6前病院1998」とする。
7)それ以上の前は、専門医を取りたての高知県の「K7前病院1995」にする。
9月1日(火)とにかく「O1前病院」に移動して、手術の手伝いをしてきた。
やや遅く自宅を出発したので、駅裏の12時間おいて1100円の駐車場がなんとかギリギリ駐車できた。さらに後15分でJRの電車が出発するので、杖つきながら急いで歩いた。なんとか2,3分前に乗れた。もう夏休みも終わり、生徒さんがいっぱいで座れない。空いた席に座ろうとしたら、他の人が座った。次の座れる順番をまつために椅子のそばに立っていたら、そのほかの人が席を譲ってくれた。右膝、右殿部が痛かったのでありがたかった。駅に到着、ホームにでたらICOCAカードの残額が700円ぐらいになっていたので、すぐに課金した。なんか便意があり、駅のとなりのトイレへ、さらに駅構内のセブンで昼食を購入。これが電車到着して10分以内で終了。バス亭にいくと、JR到着から10分待ち予定のバスがきたので乗って病院へ。なんとかかんとか、手術に間にあった。手術は予定より早く済んで、帰りは新幹線で。というのは病院から一番近いJRの駅はエレベーターもエスカレーターもなく階段が大変なので、帰りは新幹線と決めていた。まあコダマは昼は1時間に1本なので、間に合うようにいけて良かった。帰院後、「今の病院」で、ヨード剤アレルギーの人のために、生食を髄注して髄液の漏出部位を確認のMRIを撮った。なんとか漏出部位は判明。さらに16時半に別の患者の家族に説明。その後医局に戻ると、前で薬会社の人が待っていた。もう用事がいっぱいなので断っていたが、さらっと説明を聞いていたら、自分がピッチを別のところに忘れていたらしく、外来が探していたような。なんと自分が17時から19時の当番だったと判明。外来をした。とにかく、朝の6時半ぐらいからノンストップで働き続けた。なんとか20時には自宅に帰り着いた。長い一日だった。
9月2日(水)この日は、午前は自分の専門外来。なんと途中から紹介状を持った初診患者が来た。自分が、専門にしていることが県内の脳外科病院に知れ渡ってきていることが判明。その後は、15時半から、痛みどめ、アレルギー対策をして、今の病院に来るまで修行?研修?した「O1前病院」で修行したC1/2からのブラッドパッチを施行した。ブラパチとしては4例目。手技後のCTでは位置は間違い無い。量がもう少し多く入れば100点だったか。まあ「O1前病院」に8ヶ月単身赴任して技術を学んだ甲斐があったというお話。長い道のりだった。自分が初めて髄液漏を診療したのが2002年だったと思われる。その当時はブラッドパッチは麻酔科の先生にしてもらっていたので、自分は治療が出来なかった。それが、今は腰椎に硬膜外持続注入カテーテル留置するのも、頚椎C1/C2からの硬膜外自家血注入も出来るようになったので、診断も治療も全部出来るようになったと言うこと。しかも診断方法も治療方法も長足の進歩で、第4世代という印象。長年の目標が達成できた瞬間ではあった。次は応用でさらにそのデバイスが来るのを待っている。2002年からまわりまわって漸く、円周の全部をまわったという感じ。長い医師生活を振り返っても、多くのことをしてきたが、これで、後は論文を書いて引退できるという印象。セカンドライフのしたいことはできると判明した瞬間であった。このために努力をしたので、多くの他の分野は徐々に外して行く予定。
