私生活,雑感

2024年12月 日々の生活

12月1日 ()もう記憶にない。
12月2日 (月)もう記憶にない。
12月3日(火)病棟患者定期、外来でケモ1例、退院の人の紹介状1名。
〇〇市民病院から、バイトに来て良いかと言う電話あり。いつもそこには急変、血管内治療が必要ならお願いしている。こんなところにバイトに来る理由が無いだろう。片道1時間半かけて、3時間外来して、また1.5時間かけて帰って元の忙しい病院でそれからも仕事をする。タイパが悪すぎる。どうも話を聞くと手術のうちの8割が救急患者で予定手術が2割なので、「予定手術も増やすように」との指令というか、命令というかプレッシャーがでたような話。オペ患者の集客が目的。こちらとしては、午後半日の外来から当直して次の日の朝まで働いてもらえば、多くのオペ患者を吸い上げることが出来そうな感じがする。
以前に、大学から「脊髄の外来」に来させてほしいとの依頼もあったが、週に3時間で患者を集めるのはなかなか大変。すでに脊髄のオペは別の病院へのルートがあるので、いまさら大学病院にというのは大変である。どうも、まだ未受診の患者群が大勢いるような錯覚に陥っている印象をうける。そうではなくて人口が少ない。受診者の実数は少ない。しかし高齢者ばかりで有病率が高いので、「患者ぜんたいとしては多い」と錯覚してしまうと思った。また夕方は自分の行く末で、電話で相談。なかなか、面倒な話であった。

12月4日(水)11時までに書類、回診。その後は11時から13時前まで外来。その後、入院患者が急変。緊急に気管挿管。激しい嘔吐と下痢でショックになった。点滴、抗生剤を投与。
しかも夕方は副当直。17時半にはすぐに大腿骨転子部骨折の人を入院させた。その後も指示をだしたり大変であった。24時には真庭ベースキャンプ(アパートの別称)に帰り着いた。その後に、学会出張の準備、寝たのは木曜日の3時。

12月5日(木)3時過に寝て、6時半には患者さんの血糖値のことで電話あり。二度寝入りで9時前に目がさめた。頑張って病院へ。CVを前日のショックの患者で挿入してもらったりしながら11時前まで病棟の仕事、それから空港へ。山の中の道の途中でお猿さんの集団をみた。非常に天気が良かった。飛行機から富士山もみえた。その後は、新横浜まで高速バスで片道1000円。新横浜駅の上のホテルに止まった。息子と食事。夜は、すぐにねた。

12月6日(金)頭痛学会。朝、目覚ましをかけたつもりがうまくいっていなかった。起きたら7時2分。専門医単位取得の講習は7時半から。なんとかネクタイはできなかったがスーツを着て、ひげも剃らずに会場がすぐ近くの別のホテルだったので7時25分には到着。7時半からの講習に間に合った。9時前に講習はおわって、駅ビルに戻って上島珈琲でネルドリップのコーヒーを飲んで、朝の薬も飲んで一息ついた。ものすごくおいしかった。後は、また学会の会場に帰って学会を聞いた。夜は洋食屋で食事。

12月7日()朝7時半からの専門医更新単位のための講習。すでに予約でいっぱいでネットからはできなかった。自分の今までの経験で、当日、朝早くいけば精々10名ぐらいしか当日の受付はいないので、間違い無く入れる。問題はネットでの予約が5000円、当日受付が8000円と高価なこと。まあ仕方がない。横浜まで来て、現地のみでの点数獲得可能となれば、諦めないこと。無事終わった。特別講演、ランチョンセミナーなど全部英語のスピーカーの人達の話を聞いた。その後は14:50分発の高速バスで羽田空港へ。無事19時過ぎに空港に着いた。後は20時までかかってMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に到着。羽田空港で買った「和光」のお弁当を晩ご飯にたべて、休憩。

12月8日()朝から絶対しないと行けないことがあった。自分の3階のアパートの倉庫からタイヤを4個出した。夏タイヤから冬タイヤに換えてもらおう。前の前の車と同じサイズのはずなので、車に乗せていった。「お客さん、サイズは合っていますが、これは夏タイヤです」と言われてショックを受けた。事故したのが3月末だった。前の車に緊急避難で替えたときは、その一ヶ月後なので「冬タイヤ」のまま下取りに出したと判明。その冬タイヤは購入したばかりだった。失敗。ということで、新しく冬タイヤとホイールも購入。12万円かかった。それで履いていた夏タイヤを含めて8本のタイヤを車にのせて、そのまま病院へ仕事に。書類かいたり回診少しして18時にはMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に帰宅。ホイールのついたタイヤが重い。3階まであげるのに一本ずつが精一杯。ホイール無しのタイヤだけは2本まとめてあげられた。合計3本あげたが、まだ5本残っている。なんか重労働。一日2本ぐらいずつあげていこう。後でよく見ると、16インチではなく、15インチにみえる。車高が少しひくくなった様な。まあ、仕方が無い。

12月9日(月)朝から外来2名。紹介状もかかないといけない。昼から慢性硬膜下血腫の患者が紹介されてきて、入院、手術の段取り、次は片頭痛患者の受診相談。他への紹介状の相談。とにかく、用事ばかり。なんとか火曜日の定期も半分の患者にだしたところで、すでに17時すぎで、なんとか用事を済ましたかった。しかし、その時刻で他の病院の先生から直接の電話紹介。TIAが昼から起きているとのこと。救急車で来院。cresend TIAというもの。朝から満床なので3名すでに救急を断ったところで、その救急を受けたので、ものすごく面倒になった。MRIのdiffusion 2mm での3方向で小さな梗塞を認めた。隣の病院に紹介入院となった。19時ジャストまでかかった。そして帰る準備。重いホイールのついたタイヤを3本、順番に真庭ベースキャンプ(アパートの別称)の3階まであがって、手首が痛い。もうバドミントンは19時からだったので行く体力も時間もない、シャトルのみを持って行って、今回は欠席。とにかく、毎日、予定の仕事は出来ない。

若者の興味が離れて行っているもの、1. ギャンブル、2。たばこ、3位は車とのこと。
まあ、自分は1,2は最初から興味がない。若者でもないが、パチンコなどは今後もドンドン廃れていくと思う。

12月10日(火)9時集合でフライアングリング。目から鱗。一匹も釣れなかったが新知見をえられた。16時にはMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に。それから病院でいっぱい仕事。18時10分には迎えのタクシーが来て、地域の医師会の懇親会へ。ノンアルコールにした。21時に終了。自分の顔も広くなったと思う。小さな医師会なので当たり前か。開業医の先生も8名が引退、閉鎖した。新しい医院の開業はひとつだけ。
21時半からは、また医局で紹介状を2名かいた。これは大きかった。24時過ぎにMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に帰還。寝た。

12月11日(水) この日も外来。11時から13時すぎまで、15時からも外来。なんとかすました。一応 自宅(岡山市)になんとかして帰り着いた。
12月12日(木)有休をもらって、11時に散髪に、14時半には病院へ。なんとか後は仕事をした。なんとかして、13日金曜日の転院の人の紹介状を書いた。24時にはかえりついた。
12月13日(金)頑張って、午前の外来を13時半にすました。その間に転院の家族にも説明。14時半には気管挿管していた患者を抜管した。さらに15時ぐらいは回診。17時前に他の病院から「脳出血が先か転倒が先か」の患者紹介。認知症完成形、転倒しやすい。脳挫傷であった。19:30までかかった。他の病院の医師に2か所依頼の電話。17時過ぎなら、もう、皆帰っていた。

12月14日()とにかく9時から頑張って、12時半には済んだ。13時半には電話あり。なんとかかんとか病棟もまわって、16時過ぎにはMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)へ。疲れた。フライを巻いた。秋から冬にハッチするコカゲロウを巻いてみた。

12月15日()朝、11時に、河原についた。吹雪。目を開けていると目の中に雪がはいってくる。地面も雪まみれ、気温はゼロ度ぐらい。防寒着は着ているので実際は寒さはない。風が体感温度をものすごく下げる。12月14日からの寒波ですごいことになっていた。すぐに撤退。その後に、湯原温泉の大きなニジマスをついでにみた。一日2200円だして釣ってもよかったが、寒すぎて意欲はマイナスだったので温泉にもはいらず真庭ベースキャンプ(アパートの別称)に帰宅。しばらく動かず休憩。入浴。熱めの風呂に入っていると、湯船からでたくない。なにか一週間のうち、一番温度が低いのが日曜日ごとというのはやめてほしい。天気予報ではそうなっていた。その後は、19時から23時までは病院で仕事。少しでも書類などをすました。忙しくて、検査をした患者の画像を見れていないなどがあり、みていると、慢性硬膜下血腫の人が2週間で最初の量まで再貯留していて驚いた。オペの方針を立てた。主治医意見書が6名分机の上に載せられていた。体力低下、はげしい。

12月16日(月)隠れ外来で10時から12時まで外来。15時に患者家族に手術の説明。
17時半の勉強会をして、他の仕事も行ったが、毎日何がなにやらわからない感じ。火曜日に他院からの転院の患者の検査などを入れておいた。20時過ぎにはMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に帰った。

12月17日(火)朝一に主治医意見書を1名書いた。それから9時半から慢性硬膜下血腫の手術。11時過ぎに終了。他院からの転院患者家族に説明。他の入院患者が脳挫傷後のてんかん発作が起きて精査。家族に電話。夕方、転院してきた患者が徘徊。投薬。病院が採用した新しい手術記録用紙に手術記録を書いた。あまりに忙しかったので定期処方が全くでていないので、21時から処方しはじめて22時過ぎにはできた。昼休みに他院の先生から電話あり。いろいろとお話をした。自分のことを一番に考えることと言われた。同級生でもあり、率直な意見である。

12月18日(水)朝一に一人2回目となる主治医意見書を済ました。そのヒトは新しく病名に認知症が加わった。9時40分他院から患者の紹介電話。10時半から診察をして、11時からは本来の外来の開始。12時までの外来が13時までかかった。手術翌日のCTでは手術側は問題なかったが反対側から出血。家族に電話。
ところで自分のブログにたくさんのスパムメールがくるのは、ある決まった記事からなので、それらの記事を全部下書きに落として見えないようにした。それで一日10-20個が来なくなった。そんなものか。
日本人の令和5年の寿命は男81.05歳、 女87.14歳とわずかに伸びたような。

12月19日(木)9時からリハ外来。10時すぎに症候性てんかんの患者さんが来院。救急で無く家人の車に乗ってきた。入院、点滴、投薬の段取り。その後、残胃が1/3のヒトの胃カメラをしてもらい、家族に電話。一日2名の患者家族に電話。
連日、家族に電話で状況説明。「MMCC(❝Maniwa Medcial Call Center❞)」という感じ.今日も2名電話.

12月20日(金)朝は、自宅(岡山市)からMBC(真庭ベースキャンプ:アパートの別称)に来る途中は、マイナス1度が道路沿いの温度計にでていた。本格的な冬の到来。
午前中の外来、終了後に急いで脳ドックの診察。急いで紹介状、主治医意見書を書いた。
15時から、会議、来年の標語を決めた。夕方、インフルワクチンが一本、あまっていたので、急いで打ってもらった。昼に他院の医師から電話あり。いくつか質問した。

12月21日()なんとか外来を13時前にすまして、病棟の指示をだした。14時半ぐらいには昼ご飯を食べれた。15時前にうとうとしていて、大学からの若い先生にきてもらっていたので、お話を聞いた。いろいろと事情があるような。

12月22日()久しぶりに休憩、夕方から病院へ、主治医意見書も2013年発症の人の続きを書く依頼があり、11年分のカルテをみて、イベントをピックアップして、非常に疲れる。夜に状況説明。大学からの外来派遣医師が1月末で終了して4月からは別の二人組がくるらしい。どうするのか。2月、3月は、別の人が手伝いに来手くれるらしいが、脳ドックや特殊な疾患はだめであろう。
どんな脳外科医がほしいか、トップに聞いても、「他の人と問題を起こさない人、機嫌の良い人」など、「どんな人間がほしいか」という話しか繰り返さない.こちらは埒ががあかないというか、話が立ち消えになってしまう。資格を持った専門職を募集するのに、「やさしく、協調性のあるひと」などの条件を出されても、派遣する側、募集される側からしたら、「何も言っていない」状態に等しい。

あるいは、「夫の条件」で優しい人などは基本条件なので、収入、身長、職種など多くの条件の基本の土台である。以前、女性の希望する、持てる男の条件としては「高身長、イケメン、一緒にいて楽しい、お金持ちでおごってくれる」などが上位の条件にはいると記載があった。しかし、結婚相手の条件の1位、2位は「健康なこと」「ちゃんと仕事をしているヒト」となり、全く条件がことなる。「おごってくれる」などは、それぞれが別会計だからこその条件で結婚後に夫が給料を稼ぐために妻も協力していている状態になれば、金の出所は夫婦の共有のものからなので、「おごってもらう」などの条件は結婚したら消える。

こちらとしては「どんな脳外科医師がほしいか、手術はどの程度できるのか、顕微鏡手術を緊急でしたいなら、それにあわせて準備をできるのか」など具体的な話が全くできない。
そもそも、脳外科の現場を、一切合切、知らないひとが脳外科の医師を希望というよりは、一般の従業員をひとり募集という印象の話をするので、再び話が中断してしまった。毎回、もやもやして、「こんな事では、脳外科医師は誰も手をあげてこない」と前に進まない感ばかりがつのる。それだけではだめなので、数字を出すようにお願いした。

12月22日(月)朝、今年初めて、車の窓が霜で覆われた。雪かき棒で、窓の霜を取って、出勤。「年賀状じまい」がたくさんくる。まあ、年賀というのが、昭和の文化。今の20歳代の人達は、もともと子供の頃から年賀状など出していない。

12月23日(火)

12月
12月26(日)

12月27日(金)朝、9時からの外来。
12月28日()外来、最後に前日の転倒後のふらふらの高齢者をみて13時半には外来が終わった。その後は病棟の増悪患者の指示、家族への電話。16時前には真庭ベースキャンプ(アパートの別称)にかえれた。まあ、年賀状を書く時間がない。疲れてウトウトした。
12月29日(日)なんとか14時にはおきて、病院へ。その後に自宅(岡山市)へ。

12月30日(月)朝から年賀状を書いた。PCにデータをいれ作成したと作成したあと、2024年の年賀状を見返すと、そのときにすでに「今年で年賀状を終わりにします」というヒトが3名はいた。喪中の葉書も見落としていて、書いたが出さない枚数は5枚もあった。夜はvignetteと言う店に食事に行った。創作フレンチという感じの店だが、驚きは、「

12月31日(火)朝から年賀状を郵便局へだしてきた。まあ1月3日には届くであろう。20歳代の息子は、はじめから「年賀状は出す習慣をもっていなかったのでびっくり。

 

 

 

 

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